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特集

修験道の寺院としての歴史とともに、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海も学んだ寺子屋としても知られる堺市立町家歴史館 清学院 MOVIE

堺市立町家歴史館 清学院

堺市堺区北旅籠町西1丁3-13
TEL:072-228-1501
FAX:072-228-1501
URL:http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/seigakuin.html
開館時間:10:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料:100円(中学生以下・65歳以上の方・障害のある方は無料)
交通:南海線「七道駅」から300m、阪堺線「高須神社駅」から300m
駐車場:なし ※駐車場はありませんので公共交通機関をご利用ください。

修験道の寺院としての歴史とともに、江戸後期から明治初期には仏典を求めて、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海(かわぐちえかい)も学んだ寺子屋としても知られる国の登録有形文化財。このたび整備がおこなわれ、平成23年10月27日から新たに「堺市立町家歴史館 清学院」としてオープンしました。内部では観光ボランティアガイドによる案内もあります。ぜひ一度ご来館ください。

慧海の学んだ寺子屋 清光堂

清学院では江戸後期から明治初期にかけて「清光堂(せいこうどう)」という寺子屋が営まれていました。河口慧海が数え年6歳で清光堂に入った明治4年(1871年)には、男子48名、女子35名の合計83名が在籍し、清学院第11世秀全が教師をつとめていました。
寺子屋は江戸時代を通じて、庶民の子弟に「読み書き算盤(そろばん)」の習得や、地理・人名・書簡作成・歴史・古典など実生活に必要な知識・教養や技能を教育した民間施設で、現在の学校と違い一斉授業を原則とせず、生徒はある程度自由に勉強していたようです。
堺環濠都市区域では、江戸後期には清光堂も含めて約19箇所の寺子屋がありました。清学院には当時使われていた文化5年(1808年)の銘のある天神机や小型の硯、教科書などの寺子屋関係資料が残されています。
清光堂でも「千字文(せんじもん)」「唐詩選(とうしせん)」や「往来物(おうらいもの)」のほか、算術に関する教科書などが使われていました。一般的な寺子屋教科書のほかにも、堺の町名や諸職(しょしき)・屋号などを通じて文字を教えるための教科書もあり、商工業者の子どもたちが多い堺の教育の特徴があらわれていて、江戸時代の堺の庶民教育を物語る貴重なものです。

「清光堂」の墨書のある寺子屋教科書

堺の町名と文字を教えるための教科書


河口慧海 ~仏典を求めて日本人で初めてヒマラヤ山脈を越える~

河口慧海は慶応2年(1866年)陰暦1月12日、和泉国堺山伏町(現・堺区北旅籠町西3丁)に生まれました。数え年6歳で寺子屋「清光堂」(清学院)に学び、明治5年(1872年)の学制公布後は錦西小学校に入学しますが、12歳で家業の桶樽製造業に従事するため退学します。
その後、同小学校教諭河辺和一郎が開いていた夜学校や、土屋弘(鳳洲)主宰の晩晴書院で漢学などを、堺で布教活動をしていたアメリカ人宣教師コルビー女史からは英語とキリスト教を学びます。
明治21年(1888年)には上京し、哲学館(現・東洋大学)に通います。26歳の時に得度して黄檗宗の僧侶となりますが、漢訳仏典の限界などを感じることとなり、チベット語一切経(大蔵経)やインドで滅んでしまったサンスクリット語仏典の探求、収集とその請来を志し明治30年(1897年)厳重な鎖国体制下のチベットを目指します。
ネパールを経て明治33年(1900年)ヒマラヤの峠を越えチベット西部に入り、翌年にはラサに日本人で初めて到達しました。この第1回旅行は6年におよび、仏教についての研鑽と、チベットの風俗や生活習慣、風習など様々な見聞を深めます。帰国後はその旅行談を新聞に連載し、後には「西蔵(チベット)旅行記」として刊行されました。
明治37年(1904年)には再びチベットへ旅立ち11年もの間、インド、ネパール、チベットで過ごします。
帰国後の慧海は、チベット請来資料を駆使しながら多くの書物や記事を書き、かつ各地で講演をしながら仏教の正しい理解と普及に努めました。

河口慧海(堺市博物館蔵)


清学院の歴史と堺の庶民信仰

清学院は天正元年(1573年)に開かれたとされる修験道の寺院です。修験道とは日本古来の山岳信仰をベースに、仏教や神祇信仰、陰陽道などの要素が加わって形成された宗教で、その信仰は山伏によって広められました。中世後期以降、都市や農村に定住するようになった山伏は、当山派と本山派に組織され、清学院は醍醐寺三宝院門跡を棟梁とする当山派に属していました。
清学院では、先達として講を率いて行う大峯山参詣などのほかにも、昭和40年頃まで祈祷札を配ったり(配札)、厄除け、病気平癒などの祈祷や名付けなど、地域の庶民信仰と密接に結びついた様々な活動が行われていました。

清学院の祈祷札

元禄2年の「堺大絵図」では「山伏清学院」と記されている(アミがけの部分)


清学院の仏像

不動堂には本尊の不動明王坐像を中心に弘法大師・青面金剛(しょうめんこんごう)・役行者(えんのぎょうじゃ)、そして当山派の流祖といわれる理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)がまつられています。
いずれも江戸時代の制作ですが、弘法大師坐像の台座には享保6年(1721年)「大坂南久宝寺町」の「大仏師髙橋左京」が制作したことを示す銘文が見られます。

本尊 不動明王

弘法大師坐像


清学院の建築

清学院は江戸時代後期に建築された修験道の寺院で、都市部の極小な敷地内に不動堂・庫裏(くり)・門がコンパクトにまとめられている点に加えて、歴史的には江戸時代に都市の内部にあった現存する数少ない修験道の寺院として貴重であり、平成14年(2002年)には国の登録有形文化財に登録されています。
不動堂および庫裏の建立年代についての記録は残されていないため定かではありませんが、木鼻や虹梁(こうりょう)の彫刻の形式から江戸時代後期と考えられます。門および塀は寛政3年(1791年)に大破したため大修復が行われたことが資料から分かります。

  • 奥座敷
  • 庭
  • 座敷
  • 不動堂
  • 玄関
  • 土間
1 奥座敷

寺子屋「清光堂」当時の天神机などがしつらえられ、寺子屋の雰囲気が感じられます。
壁は建築当初の赤色の土壁に復原されています。

3 座敷

寺子屋の教科書や河口慧海ゆかりの品を展示しています。

4 不動堂

修験道の歴史を持つ清学院の本尊不動明王を安置する不動堂は、堺の庶民信仰の祈りの場でした。

6 土間

見上げると竹野地が特徴的な空間をつくっています。

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