行基が念仏寺、空海が宝塔を建てたことで大寺とも呼ばれる旧市内唯一の式内社です。
堺市堺区甲斐町東2丁1-29
TEL:072-221-0171
FAX:072-223-9512
URL:http://www.aguchi.jp/
営業時間:拝観自由
問合せ受付時間:午前8時30分~午後5時
ご祈願受付時間:午前9時~午後4時30分
入場料:拝観無料
アクセス:南海高野線「堺東駅」より南海バス「大寺北門山之口前バス停」下車
南海線「堺駅」より南海バス「大寺南門山之口前バス停」下車
阪堺線「大小路駅」または「宿院駅」下車
駐車場:無料(境内約35台)
神功皇后により創建されたと伝わり、奈良時代には開口水門姫神社と称され、海を護る役割をもち最古の国道といわれる竹内街道の西端にありました。また、行基により念仏寺も建立され通称が「大寺」であったことから、念仏寺が廃寺となった今も堺の人々に「大寺さん」の通称で親しまれています。
平安時代の終わりごろ、当時堺の中心部にあった開口村・木戸村・原村の三村の祭神が合祀され、三村宮(三村明神)とも呼ばれるようになりました。中世には堺南荘の鎮守としても知られ、神社の会所は堺の自治の中心を担った会合衆と呼ばれる人々の集会の場としても利用されました。
明治時代には、神社境内に現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。
神社には堺の人々の深い信仰を背景にして、多くの古文書や美術工芸品が今に伝えられ、堺にゆかりの深い絵師土佐光起が神社の創建を描いた「大寺縁起」や、古くから伝来する「伏見天皇宸翰御歌集(ふしみてんのうしんかんおんうたしゅう)」、「短刀(銘吉光)」は重要文化財に指定されています。
西暦200年頃神功皇后勅願により建立されたと伝えられ、奈良時代には開口水門姫神社と称され大阪湾の出入口を守る神社でした。堺の集落はこの辺りから発展し町となり、平安末期には開口・木戸・原村の三神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集めました。
また、天平18年(746年)行基が念仏寺、その後空海が宝塔を建立。江戸時代までお寺が境内にあったことから、今も「大寺さん」と呼ばれています。明治に入り神仏分離で寺は取り壊され釣鐘は本願寺堺別院に移転、三重塔は昭和20年の空襲で焼失しました。
旧市内唯一の式内社で海の神様として知られ、大阪住吉大社の奥の院とされています。昭和39年に本殿が再建され旧市内南荘の氏神として、南北両荘の総氏神として親しまれ、塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)が祀られています。
本殿
重要文化財「大寺縁起」は元禄3年(1690年)制作された三巻より成る縁起絵巻。絵は土佐光起の筆、詞書は関白近衛基煕など25名の公家による寄合書となっています。上巻には開口社の草創と住吉社との関連、中・下巻では念仏寺を開いたとされる行基の生涯、最後に開口社に住む天狗三村(みむらん)坊の伝承が記されています。
堺に生まれ京に帰って近世土佐派の再興に尽力した光起。堺ゆかりの絵師による記念碑的な大作の絵巻として大変貴重です。(大阪市立美術館寄託)
鎌倉時代の仮名の名筆、和歌の詠み手として知られる伏見天皇の「伏見天皇宸翰御歌集」(大阪市立美術館寄託)、室町幕府10代将軍義稙(よしたね)寄進といわれる「短刀銘吉光」(大阪城天守閣寄託)も重要文化財です。
また、「開口神社文書」(大阪歴史博物館・大阪城天守閣・堺市博物館寄託)は鎌倉時代~江戸時代の開口神社と大寺念仏寺関係の古文書。田地寄進状・売券、所領安堵状、室町幕府関係文書、秀吉朱印状など多岐に渉り府の指定有形文化財です。
大寺縁起
境内東側には豊竹稲荷神社、三宝荒神社(竈神社)の2社、白髭神社・塞神社(庚申さん)、舳松・松風神社、菅原・岩室神社の2社合祀殿3棟。社殿裏手には熊野・厳島(弁天さん)・兜・三宅八幡・琴平・神明・豊受神社、産霊・北辰・大国魂(大黒さん)・恵比須(戎さん)・少彦名・舟玉・楠本神社の7社合祀殿2棟の22社の境内神社があります。
また、本殿北側の念仏寺の名残りである薬師社には、ご神体として平安後期の作とされる薬師如来坐像が祀られています。神宮寺の念仏寺本尊は戦前には廃仏毀釈で外部に出さず秘蔵、昭和39年「節分祭」に開帳され毎年行者による護摩供養が行われています。(節分祭のみ拝観可)
豊竹稲荷神社
三宝荒神社(竈神社)
薬師社
海会寺が開口神社西門付近にあった1338年、名僧乾峯和尚が徳を慕って教えを乞いに訪れた金面龍王という龍に、ありがたい戒を授けました。龍はお礼に干ばつに困る人々のために、「地面に鵜の羽を敷き白露が浮かぶところに井戸を開けば清水が・・・」と教えました。そこに井戸を掘ると水が湧きだし、枯れることなく泉南第一の名泉と伝えられたそうです。
海会寺が元和の大火で南宗寺境内に移転後、開口神社の井戸となり西参道入口の大鳥居南側にあります。金龍の名は金面龍に由来、平成16年に大小路界隈『夢』倶楽部により井戸前に館が完成し金龍井が復活しました。
茶室「無礙庵」は茶道勃興期の指導者として、千利休などに大きな影響を与えた武野紹鷗好みの茶室と伝えられ、戦前は八窓茶室(八窓の席)と称されました。昭和20年の戦災で焼失した茶室は平成元年に再建。八窓といいながら七つの窓であることから「無礙庵」と名付けられました。(内部非公開)
手水舎は戦災から免れた唯一のもので、木鼻・絵様肘木・花肘木など江戸中期の様式を伝える貴重な建物。屋形は大町浜の壷屋作左衛門によって宝永7年(1709年)奉納された手水鉢と同時期のものと思われます。
影向石は開口大神(塩土老翁神)が影向の時に腰かけられ、その後住吉へ向われ住吉の神となったとも、行基上人と法談した場所とも、弘法大師と対面された時の御座所ともいわれる石です。
明治37年建立の敷島会歌碑。同会には堺に生まれ明治・大正・昭和を短歌とともに生きた「情熱の歌人」与謝野晶子も入会していました。
芸事・習い事の上達を願い使い古した扇を供養する「扇まつり」が毎年11月に行われます。
表参道脇に建ち、阿波の武将三好元長が政務を執った顕本寺がこの辺りにあったとされます。
そのほか、商才と先見の明で数々の事業を成功させた堺出身の鳥井駒吉の名が稲荷神社裏や北門東の石碑に見ることができます。
三国丘高等学校
発祥之地の碑
泉陽高等学校
発祥之地の碑
堺の幼稚園教育
発祥之地の碑
西門大鳥居両側の狛犬
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