堺ゆかりの偉人

千利休-茶道を大成したわび茶の祖

千利休(せんのりきゅう)大永二年~天正十九年(1552-1591)
堺の裕福な町衆、魚屋(ととや)に生まれた利休は、早くから茶の湯に親しみ北向道陳、武野紹鷗に師事しました。堺の豪商の一人でもあった利休は茶の湯をもって信長に接近し、その死後は秀吉の茶頭として仕えながら茶道を大成しました。
北野の大茶会を取り仕切るなど、天下一の茶匠として権勢を振るいましたが、小田原の役後秀吉の怒りにふれ自刃しました。
現在の茶道千家の始祖であり茶聖と称せられています。

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さかい利晶の杜

「千利休茶の湯館」をはじめ、千利休がつくった茶室で唯一現存する国宝の茶室「待庵」の創建当初の姿を復元した「さかい待庵」があり、外観の見学だけではなく、その室内まで入ることもできます。

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千利休屋敷跡

さかい利晶の杜に隣接する千利休屋敷跡には椿の井戸と利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てられた井戸屋形が現存しています。

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堺市茶室 伸庵

数奇屋普請の名匠といわれた仰木魯堂が、粋をこらして昭和4年に建てた茶室で、東京の芝公園から移築されました。椅子に座って気軽にお茶を楽しむことができ、堺ゆかりの千利休にちなんで、利休の古印が描かれた菓子が振舞われます。

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与謝野晶子-女性の自由と自立を求めた力強い生涯

与謝野晶子(よさのあきこ)明治十一年~昭和十七年(1878-1942)
堺の甲斐町に和菓子で有名な駿河屋の三女として誕生した晶子は、明治・大正・昭和を短歌とともに生き、「情熱の歌人」と呼ばれました。また同じ文学者鉄幹(寛)の妻であり、11人の子どもたちの母でもありました。 
明治三十四年に出版された「みだれ髪」は、鉄幹へのあふれる愛と青春のみずみずしさを歌いあげ、浪漫主義の代表作となりました。
また詩、評論、古典研究など、さまざまな執筆活動を展開する一方、女性の権利に焦点をあてた評論も多く著し、当時の女性の地位向上に積極的に取り組みました。

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さかい利晶の杜

歌人与謝野晶子の作品世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」などをご覧いただけます。

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与謝野晶子生家跡

「みだれ髪」はその代表作、甲斐町の生家跡には「海こひし潮の遠鳴りかぞへつつ少女となりし父母の家」の歌碑があります。

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薫主堂

明治20年創業の伝統的技法の線香づくりで暖簾を守る老舗。NHKの与謝野晶子ドラマで生家「駿河屋」として撮影された江戸末期の店舗は、古い商家の面影を残し堺の伝統工芸品イメージにピッタリです。

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行基-四十九もの寺を建てた民衆の僧

行基(ぎょうき)天智七年~天平勝宝元年(668-749)
堺・蜂田郷(現在の家原寺)に生まれた行基は、"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻すべく、一生を民間布教と社会事業にささげました。
生涯に49の寺を建立し、その一つである大野寺土塔からは、築造に協力した人々が自らの名前を記したと考えられる文字瓦が多数発掘されています。また、東大寺大仏建立にも加わり、天平十七年(745)聖武天皇から大僧正の位に任ぜられました。

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家原寺

奈良時代の高僧・行基の生誕地で「知恵の文殊さん」として知られています。入学試験のシーズンになるとたくさんの参拝客が訪れ、本堂の壁や柱が「合格・昇運・祈願」と書かれたハンカチで埋めつくされます。

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開口神社

天平18年(746年)行基が念仏寺、その後空海が宝塔を建立。念仏寺の通称が大寺であったため念仏寺が廃寺となった今も地元の人々には、親しみを込めて「大寺さん」と呼ばれています。

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河口慧海-仏教の普及に生涯をささげた在家仏教僧

河口慧海(かわぐちえかい)慶応二年~昭和二十年(1866-1945)

仏教に傾倒した慧海は当時の翻訳仏典に疑問を感じ、33歳の時に真の仏典を求めてヒマラヤ山脈を越え、当時鎖国中のチベット入りを果たし、膨大なチベット語経典や民族資料などを収集しました。

47歳の時に再度チベット入りをした後、在家仏教僧として仏教の普及に生涯をささげました。当時の体験をまとめた「チベット旅行記」は、学術的価値とともに探険記としても高く評価されています。

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堺市立町家歴史館 清学院

修験道の寺院としての歴史とともに、江戸後期から明治初期には仏典を求めて、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海も学んだ寺子屋としても知られる建物。平成14年に国の登録有形文化財に指定されています。

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阪田三吉-反骨の精神で一時代を築いた名人

阪田三吉(さかたさんきち)明治三年~昭和二十一年(1870-1946)

大鳥郡舳松村(現在の協和町)に生まれ、幼少期から路地裏で大人が指す将棋を見て覚えた三吉は、自由な発想で常に可能性を広げていく定跡にとらわれない将棋で、驚異的な強さを発揮しました。実力社会といわれた将棋界で大成し、好敵手関根金次郎と一時代を築きました。昭和三十年には、日本将棋連盟から名人位と王将位が追贈されました。三吉が愛用の将棋盤のふたに書いた「馬」の文字は、いななくような躍動感にあふれています。

※「阪田三吉」の「吉」は機種依存文字の為、代用文字を使用しています。正しくは、吉の上辺は土です。

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舳松人権歴史館

阪田三吉記念室を設け、ゆかりの品や映像などによりその業績を顕彰します。

※「阪田三吉」の「吉」は機種依存文字の為、代用文字を使用しています。正しくは、吉の上辺は土です。

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